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日本の鍼灸の歴史

時代と共に伝えられてきた東洋医学の鍼灸

さあ、2枚目の扉を開いてみてください。

先回は鍼灸の発祥から中国大陸における鍼灸の歴史についてご紹介いたしました。

今回は日本における鍼灸の歴史を覗いて見ましょう。

鍼灸は遣隋使や遣唐使の伝来と共に本格的なテキストと技術の伝来がなされたと言われています。日本書紀の允恭天皇記中にも鍼灸に関連する記述が見られ、民間レベルでの技術の伝播は、さらに時代を遡るものと考えられています。

いずれにしても、遣唐使による鍼灸技術の伝播は、単に技術面にとどまらず、医療制度としての鍼灸を日本に模倣させるものとなり、701年制定された大宝律令には、医療を司る中央官職として医博士、按摩博士と共に鍼博士が規定されました。鍼博士である丹波康頼は、この時期の伝来医書を『医心方』という形で編纂し、現在までその内容が保存されています。

現代日本で行われる鍼法は、後漢以前に成立した鍼灸の原典である黄帝内経に回帰した「金元医学」の鍼法(経脈(経絡)を意識した鍼法)が主体とされており、平安期に、大陸において広く活用された『千金方』や『外台秘要』など、云わば一般向けの「家庭の医学」的なテキストの影響下にある特効穴鍼法とは一見趣を異なるものとなっています。

室町から江戸時代に大きく発展した鍼灸

室町時代から江戸時代に入って日本鍼灸は大きく発展しました。『鍼道秘訣集』の御薗夢分斎、打鍼術を発明した息子の御薗意斎、『素問諺解』、『難経本義諺解』、『十四経発揮和語抄』など、鍼灸古典に対する注釈が多数なされ、出版されました。

岡本一抱のように優れた臨床家も多数輩出され、わが国における鍼灸は内容的に大きな伸展を遂げました。また、江戸期の臨床家でその後の日本鍼灸に巨大な影響を残したのが、杉山和一です。

五代綱吉の時代、鍼刺入の為に「外筒(鍼管-しんかん-)」を使用することを発明した杉山和一は、綱吉の治療に当たり、平癒の褒章として下町一つ目に屋敷を賜り、将軍家御医師の地位と、盲人の最高位(検校-けんぎょう)を賜わりました。

さらに驚くべきことに、私費を投じて全国40箇所以上に「鍼術教授所」を開設し、日本における鍼灸を、盲人の職掌として確立しました。

この幕府お墨付きの盲人教育とそのレベルの高さは、ヨーロッパの盲人教育の萌芽と比較しても100年以上早いもので、世界史的な壮挙とされます。

いずれにせよ、この後日本においては、鍼灸を盲人が担うという、世界に類を見ない形態の技術伝承と技法の発展がなされることになりました。この杉山和一による「外筒(鍼管-しんかん-)」を用いる管鍼法は、現在では一般的技法として、わが国の鍼灸の特色をなしています。

また、盲人が鍼灸を担うようになった事で、一般的には刺入ポイントを「見て刺す」技法だった鍼灸が、「触って刺す」技法に変化したと言われています。

これは、日本の鍼灸を、同時代の他の東アジア地域における鍼灸から一歩抜きん出させる、技術論的な意義を持つ重要なポイントとなりました。

手先の器用な日本人の中でも、盲人の指頭感覚は非常に鋭敏であり、この鋭敏な感覚を用いて、体表面を「さわり」、刺入のポイントを類型分類し、技法を体系立てて来た江戸期の日本の鍼灸は、「経穴」という、効果の決まったポイントが体表面に元から存在するとする、古来一般的な鍼灸論に対し、「変化の起こっている部位」こそ「経穴」という治療ポイントになり得る、という視点を導入し、今日に続く鍼灸の科学的な解明に道を開きました。

明治から昭和にかけての鍼灸

明治時代になると、近代西洋文化の流入に伴い、明治政府が西洋医学の導入と共に漢方医学の排斥(はいせき)を進めました。

鍼灸もその例に漏れず、明治時代から大正時代にかけて鍼灸は衰退をたどることになります。

明治から昭和初期にかけて鍼灸の医学的研究が成熟を迎えるようになり、大久保適斎は、鍼灸刺激は交感神経を介して心臓に影響が及ぶということを提唱し、三浦謹之助は鍼治についての研究を行い、後藤道雄はヘッド帯を用いての治療を行ないました。長濱善夫と丸山昌郎は鍼の響きによるものと考えました。

石川太刀雄は皮電点を、中谷義雄は良導点を、小野寺直助は圧診点を、成田夬助は擦診点を、藤田六朗は丘疹点を提唱しました。

また、芹澤勝助は鍼灸師として初めて医学博士を取得しました。中山忠直は『漢方医学の新研究』の著書で鍼灸医師法を提案しました。

昭和に入ってから第二次世界大戦や、GHQが「非科学的で不潔である」と言う理由から禁止しようとした事で鍼灸の存続が危ぶまれたが、医学博士石川日出鶴丸や全国の鍼灸師の働きにより昭和22年(1947年)12月20日、「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が公布されました。

また、鍼灸の衰退に対して復興運動が昭和初期から起こりはじめました。「古典に還れ」と提唱した柳谷素霊とその元に集まった岡部素道、井上恵理、本間祥白、福島弘道などが経絡治療を体系化しました。

他にも澤田流太極療法を考案した澤田健と弟子の代田文誌、江戸時代の本郷正豊著『鍼灸重宝記』の内容を治療法の核としていた八木下勝之助、小児はりの藤井秀二、皮内鍼の赤羽幸兵衛、『名家灸選釈義』を著し、深谷灸法を確立した深谷伊三郎、その弟子で『図説深谷灸法』を著した入江靖二、『灸治療概説』を著した根井養智、『鍼の道を尋ねて』の著者であり鍼灸の神様と呼ばれた馬場白光などが古典を元に鍼灸の復興に力を注ぎました。

ちなみに、当院で行なっている東洋はりは福島広道先生が中心となって創立した東洋はり医学会の治療法ですが、会の定例会の初めには、必ず杉山和一先生と福島先生に対して感謝の黙祷を捧げてから始めています。

それは、ただ単に先生方の業績を称えるということばかりでなく、古来より現在に至るまで、脈々と受け継がれてきた伝統的な鍼灸術を古人から我々に我々から後世の人たちに伝えられるというそのことに対しての感謝の意味もあると思っています。

今回はこの辺で失礼いたしますが、次回は現在日本で行なわれている鍼灸の実際について少しご紹介しようと思っています。